2009年06月16日

脂肪酸生合成はアセチルCoA(炭素数2)を

脂肪酸生合成はアセチルCoA(炭素数2)を出発物質として、ここにマロニルCoA(炭素数3)が脱炭酸的に結合していく経路である。すなわち、炭素数2個ずつ反応サイクルごとに増加し、任意の炭素鎖を持った脂肪酸が作成されることとなる。

また、脂肪酸生合成反応が起きるには補酵素Aは用いられず、アシルキャリアータンパク質 (ACP) にアセチル基が結合したアセチルACPおよびマロニルACPが実際の反応をになうこととなる。以下に反応系を示す。

アセチルCoA(C2) + CO2 + ATP → マロニルCoA(C3) + ADP + Pi
アセチルCoA + ACP → アセチルACP + SH-CoA
マロニルCoA + ACP → マロニルACP + SH-CoA
アセチルACP + マロニルACP → アセトアセチルACP(C4) + CO2 + ACP
アセトアセチルACP + NADPH → βヒドロキシブチリルACP(C4) + NADP+
βヒドロキシブチリルACP → 2E-ブテノイルACP(C4) + H2O
2E-ブテノイル + NADPH → ブチリルACP(C4) + NADP+
ブチリルACP + マロニルACP → カプリルACP(C6) + ACP + CO2
8.の反応は4.の反応と同じである。このように炭素数2個ずつの脂肪酸炭素鎖の伸長が行なわれる。なお、上記の反応を触媒する酵素は以下の通りである。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山


アセチルCoAカルボキシラーゼ
アセチルトランスフェラーゼ
マロニルトランスフェラーゼ
3-ケトアシルシンターゼ
3-ケトアシルレダクターゼ
3-ヒドロキシアシルデヒドラターゼ
エノイルレダクターゼ
3-ケトアシルシンターゼ

不飽和脂肪酸 [編集]
飽和脂肪酸はエネルギー代謝に重要な役割を果たすが、不飽和脂肪酸の役割はそれとは異なる。1930年代の動物実験により不飽和脂肪酸を欠くことで、皮膚障害、不妊などが引き起こされることからG.O.BurrあるいはH.M.Evansによりリノール酸、リノレン酸などが摂取することが必須の栄養素である必須脂肪酸(ビタミンF)であることが示された。畜産動物の肉に割合多く含まれる飽和脂肪酸は、必須栄養素ではなく、食生活指針などでも病気との関連が示され、多くの摂取は推奨されていない。その後高度不飽和脂肪酸もプロスタグランジン類の原料や新生児・乳児の中枢神経系の発育の為に必須であることが示された。[5][4]

反対に飽和脂肪酸は、WHO/FAOが肥満問題に対する戦略のひとつとして摂取制限を挙げている

2009年05月30日

奈阿姫

奈阿姫(なあひめ、慶長14年(1609年) - 正保2年2月7日(1645年3月4日))は豊臣秀頼の娘。母は側室の小石の方(おいわのかた。成田助直の娘)。名は千代姫とも。出家後の名は天秀尼(てんしゅうに)。兄である豊臣国松とは異腹である。秀頼の正室である千姫とは義理の親子関係だったが、仲がよかったとされる。祖父豊臣秀吉の側室である、成田甲斐姫が養育を務めている。
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奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。慶長17年(1612年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城後は、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入る。この際、縁切り法を確立させたという。後にその20世住職となる。なお、このとき養育係である甲斐姫も入寺している。

寛永20年(1643年)、会津藩主加藤明成と家老の堀主水が仲違いして堀が殺害された時、東慶寺に堀の妻子が逃げ込んできた。明成は天秀尼に妻子の引渡しを要求するが、男子禁制・女性保護を楯に断り、幕府にその旨を訴えた。その結果、会津藩加藤家は改易され、東慶寺の力を全国に見せ付けたのである。そのようなこともあり縁切り寺となった。

正保2年(1645年)に37歳で死去し、豊臣秀吉の直系は断絶した。

2009年04月27日

モスクワではドイツとソ連の秘密会談が

モスクワではドイツとソ連の秘密会談が続けられ、8月22日には独ソ不可侵条約が締結された。ヒトラーはこの条約によってドイツがポーランドを侵攻してもソ連がそれに反対しないことを確実にした。また、条約の秘密議定書に、ドイツとソ連はポーランドを分割占領(西側3分の1はドイツが、東側3分の2はソ連が占領)することに合意した。西側同盟国の諜報機関はこの秘密議定書の内容を掴んでいたが、情報はポーランド政府とは共有されていなかった。

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ドイツによるポーランドへの奇襲攻撃は8月26日午前4時に予定されていた。しかし8月25日にイギリス政府は、ポーランドの独立はイギリス・ポーランド間の同盟によって正式に保障されたと発表した。ヒトラーは予定の奇襲をためらい、攻撃開始を9月1日に延期した。その間ドイツは8月26日、ポーランドとの来るべき軍事衝突にイギリスとフランスが介入することを思いとどまらせようと、両国を相手に交渉し、ヒトラーは、ドイツがポーランドを攻撃してもポーランドの西側同盟国がドイツに対し宣戦布告する可能性はほとんどないとの確証を得た。もし宣戦布告しても、ポーランドに対する国境線の確約はないのだから、ポーランドを占領してしまえば交渉によってドイツにとって有利な譲歩を引き出せると考えた。その間にも、ドイツ国防軍の謀略部隊 (Abwehr) による国境を越えた襲撃や破壊行為、国境における小競り合い、ドイツの高々度偵察機による領空侵犯の件数は増加し、戦争勃発は差し迫った状態になっていた。

8月29日、ドイツはポーランドに対しポーランド回廊割譲を要求する最後通牒を突きつけたが、ポーランドはそれを黙殺した。ドイツ外相リッベントロップはポーランドとの交渉は打ち切りにすると宣言した。ポーランド軍は戦争勃発に備えた。8月30日、ポーランド海軍は駆逐艦艦隊をイギリスに向けて出航させた(北京作戦Plan Peking)。圧倒的なドイツ海軍によって狭いバルト海で破壊されないようにする措置だった。同日、ポーランドのエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥はポーランド軍の「戦時動員」を布告した。しかしフランスはその動員を撤回するようポーランド政府に圧力をかけた。フランスはこの期に及んでもまだ外交的解決を期待しており、ドイツ軍がすでに動員を完了しポーランド国境に集結していることを理解していなかったのである。1939年8月31日、ヒトラーは戦争開始を翌日の朝4時45分とする命令を下した。この時点のポーランド軍は動員予定の70%(予備役も含めた全軍の半分)しか達成できず、多くの部隊は未だ隊形を整えておらず、それぞれ与えられた前線の守備位置に向かって移動途中であった。

2009年04月10日

ダブル・ホルン

ダブル・ホルン(Double Horn)は、2種類の調性を切り替えられるようにしたもので、現在主流として使用されている。切り替えの仕方により次のような形式がある。

セミダブル(Semi-double, compensating double)
セミダブル式は、高い方の調性の楽器に、低い方の調性を演奏できるようにするための迂回管(これを補正管と呼ぶ)を追加することによって、2つの調性の音を演奏できるように改良したものである(補正ピッチ方式)。
フルダブル(Full-double)
フルダブル式は、それぞれ独立した2つの調性をバルブで切り替えて使用する楽器である。セミダブル式の場合と違い、一方の調性を使用している時にはもう一方の管は迂回しない。セミダブル式よりも楽器の重量は増すが、低い方の調性の音色がよりシングルホルンに近いものになるという長所を持つ。
  ダブルホルンでは親指のレバーで2種類の調性を切り替える。2種類の調性の取り合わせには様々なものがあり、 F管とB♭管を組み合わせたF/B♭ダブルホルンが一般的であるが、B♭管とディスカント・ホルン(High-F管)を組み合わせたディスカント・ダブル・ホルンなども存在する。

トリプル・ホルン [編集]
前述のディスカント・ダブル・ホルンでは、B♭管とHigh-F管を組み合わせているため、通常のF管を使用できない。高音域が必要とされる場合以外はB♭管とF管を組み合わせた通常のダブル・ホルンが望ましいため、演奏曲目によってはディスカント・ホルンとF/B♭ダブル・ホルンを同時に持ち歩かなければならないことがある。しかし、複数のホルンを持ち歩くのは重量の点で困難である。

そこで開発されたのが、F管とB♭管とHigh-F管をすべて組み合わせたトリプル・ホルン(Triple Horn)である。しかしトリプル・ホルンは高価で、さらに3つの調性の管を組み合わせるために重く、長時間の演奏にはそれなりのトレーニングを要する。またその重さゆえに音色も独特のボリューム感のあるものとなるなどの欠点があり、さらなる開発が望まれている。

ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

2009年03月27日

コラボレーションモデル

イアン - 雑誌の企画で制作されたレジンキャスト製球体関節人形。冬目景の「文車館来訪記」に登場する人形をモデルとしている。
2003年に「ちょびっツ」のヒロイン「ちぃ」をモデルとしたスーパードルフィーと、「マリア様がみてる」の主人公・福沢祐巳と、その先輩・小笠原祥子をモデルとしたスーパードルフィーが限定販売された。
「下妻物語」が映画化された際、主人公「竜ヶ崎桃子」をモデルにしたスーパードルフィー、及びロリータ衣装のセットが販売された。数量限定で、本体にはシリアルナンバーが打たれた。衣装デザインはBABY, THE STARS SHINE BRIGHTが担当した。
2005年冬に「ローゼンメイデン」のヒロイン「真紅」を模したスーパードルフィーが、数量限定で製作され抽選で販売された。
2006年冬に「h.NAOTO」とのコラボレーションモデル「くるみ」が、数量限定で製作され抽選で販売された。
2007年冬に「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」とのコラボレーションモデル「トッピ」が、数量限定で製作され抽選で販売された。
2007年春に「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」とのコラボレーションモデル「ルナ」が、数量限定で製作され抽選で販売された。
2007年春に「ローゼンメイデン」の「翠星石」「蒼星石」を模したスーパードルフィーが、数量限定で製作され抽選で販売された。
2007年冬に「ローゼンメイデン」の「水銀燈」「雛苺」を模したスーパードルフィーが、数量限定で製作され抽選で販売された。
2008年春に「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」とのコラボレーションモデル「ローゼ」「ビアンカ」が、数量限定で製作され抽選で販売された。
2008年春に「秘密 ―トップ・シークレット―」の「薪剛」を模したスーパードルフィー13が、数量限定で製作され抽選で販売された。
2008年夏に「h.NAOTO」とのコラボレーションモデル「ゆい・スィートドリーム」が、数量限定で製作され抽選で販売された。

60cmクラスのスーパードルフィー同士の互換性 [編集]

衣装に関する互換性 [編集]
SDであっても女児の場合は、オプションの胴体と交換する事で、成人の体型にする事ができる。その場合、アンダーバストとウエストが細くなる。こうする事で衣装の互換性が概ね保たれている。(ただし、2004年10月にラインナップが大幅に変更され、オプションの胴体の単品での販売は行われていない。)こうした事情から、SDにSD13の衣装を着せる場合、旧ボディのオプションパーツで成人体形にしていない場合は、ドレスのウェストがギリギリになるか着せられない場合がある。
SD13男児・SD16男児・SD17男児はひとまわり大きいので、衣装の互換性はほとんどない。SD16男児・SD17男児はSD13男児よりさらに胸板が厚いため、SD13男児用の衣装でも着せられない場合がある。
スタンダードタイプのスーパードルフィー同士でも、旧ボディと新ボディでは、若干のプロポーションの変更が行われているので、レオタードの様に体に密着する様な衣装に関しては、互換性があるとは言い切れないので注意が必要である。

パーツの互換性 [編集]
2004年10月の新ラインナップ(新ボディ)以降、ボークスは四肢パーツの単品販売を中止し、ユーザーが交換できるのは手首、足首、頭のみとなった。しかし、それ以前のモデル(旧ボディ)ではパーツ販売が行われると共に、細かな変遷があったので、簡単に解説する。

旧ボディと新ボディでは胴体と脚部の間の球体関節の形状が大きく異なる為、胴体と脚部の間には部品レベルでの互換性がない。しかし、首や肩の形状が近い為、頭部と腕部に関しては互換性がある。(ただし、新ボディ以降に「ピュアスキン」という名称にて、素材となるレジンキャストが一新された為、肌の色や質感は異なる。)
旧ボディのSD13は独自の股関節機構を持っており、SDとの互換性がなく、またSD13少女とSD13少年の間にも互換性がない。
2004年10月以降のいわゆる「新ボディ」からは、少女モデルの関節の形状が統一された。こうしてSD少女とSD13少女との間には、胴体と首・四肢の互換性が確立された。なお新ボディ以降は、SD13と成人体形化されたSDとが統合された事で、ラインナップ上、SDは「10歳」のみとなり、「13歳」は全てSD13となった。

他のドールとの互換性 [編集]
ここでは、60cmクラスのスーパードルフィー(SD,SD13の新旧ボディ)と他の種類の60cm級ドールとの、頭部などのパーツや衣装の互換性について記す。

ユノス - 荒木元太郎が原型を担当したレジンキャスト製球体関節人形。かつてボークスで販売されており、スーパードルフィーのエキストラモデルの扱いになっていた。首の形状が異なるため加工が必要だが、スーパードルフィーのヘッドとユノスのボディとの組み合わせが可能である。スリーサイズが異なるため、衣装の互換性はない。
螺旋堂 - かつて、スーパードルフィーの旧ボディと衣装の互換性があるレジンキャスト製球体関節人形(『螺旋堂ドール』と呼ばれる)を制作・販売していたメーカー(このメーカーはいわゆるラブドールも制作していた。)。螺旋堂ドールには、SDと同様に男女のモデルが存在するが、ボディーにはバリや気泡などが多く、スーパードルフィーよりも品質が悪い事が知られている。しかしながら、少女タイプの螺旋堂ドールには各パーツについて、SD旧少女ボディと互換性がある為、SD旧少女ボディと螺旋堂ドールとでパーツを混在させた作例が存在する。特に頭部に関しては、顔立ちや表情の独自性を求める一部のスーパードルフィーオーナーの支持もあって、比較的受け入れられている。この為、スーパードルフィーのボディと組み合わせた作例がいくつかインターネット上に公開されている。「螺旋」をもじって「ぐるぐる堂」等と称される事もある。なお螺旋堂は、ドルフィー・ドリームを意識した様なプロポーションのレジンキャスト製球体関節人形を「新ボディ」と銘打って発表したが、実際に流通したかどうかは不明である。
海外製キャストドール - 海外製のレジンキャスト製の球体関節人形のこと。スーパードルフィーとパーツや衣装に互換性がある。韓国メーカーが多く参入しているため、「韓国製ドール」「韓ドル」などと呼ばれるが、中国やアメリカのメーカーも参入している。肌色や質感が若干異なるものの、メイクや衣装でごまかせるためスーパードルフィーのヘッドやボディと組み合わせた作例がいくつかインターネット上に公開されている。参入メーカーが多いためパーツのバリエーションが多く、メーカーごとの個性が強いことから熱狂的なファンが存在する。一方で、スーパードルフィーやユノアと酷似したドールを販売しているメーカーが存在するため、一部のスーパードルフィーファンからは蛇蝎のごとく忌み嫌われている。
カスタマイズドール - 60センチクラスのカスタマイズドールには、オビツ60の様に、スーパードルフィーとある程度の衣装の互換性があるものが存在する。(なお、アタッチメントを自作する事で、オビツ60にスーパードルフィーなどの頭部を取り付ける事も可能である。)
創作人形 - スーパードルフィー用の衣装や、グラスアイなどのオプションパーツの流通量は他の同クラスの人形用の衣装よりも豊富なので、オリジナルのドールの製作者の中にはスーパードルフィーとの互換性を意識して制作している者がいるため、創作系ドールの中にはスーパードルフィーと互換性を持つものがある。また、スーパードルフィーに限らず、ドール用のオリジナルヘッドのみを制作・販売しているメーカーも存在する。(Real Missing Linkなど。)
Blythe,Pullip - ヘッドサイズが10インチとスーパードルフィーのヘッドサイズと近いことから、ウィッグやヘアアクセサリーは共有することができる。プーリップヘッドをスーパードルフィーボディと組み合わせた者も居るが、かなりの技量を要する。
フィギュア - 大型のフィギュアの頭部をスーパードルフィーボディと組み合わせた者も居るが、かなりの技量を要する。

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

2009年02月23日

ジャワ語(Javanese)

ジャワ語(Javanese)は、インドネシア・ジャワ島の中央部から東部で話されている言語である。

ジャワ語は、オーストロネシア語族に属し、従って、インドネシア語、マレーシア語と非常に関係が深い。ジャワ語話者の多くは公的な場面で、また仕事の上で、インドネシア語を話す。

敬語が発達していることでも知られる。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

ジャワ語は、オーストロネシア語族のマレー・ポリネシア語群の西マレー・ポリネシア語群のスンダ語群に属する。言語学的に見て、マレー語、スンダ語、マドゥラ語、バリ語と深い関係がある。また、スマトラ島やボルネオ島の諸語、マダガスカル語といくらかの関係がある。

ジャワ語は中央ジャワから東ジャワにかけて話されている。また、西ジャワの北海岸でも同じように用いられている。マドゥラ島、バリ島、ロンボク島、および西ジャワのスンダ語地域において、文語として用いられる。パレンバン、南スマトラでの宮廷では、18世紀の終わりにオランダによって侵略されるまで宮廷語であった。

ジャワ語は、世界でも伝統のある言語のひとつと見ることができる。12世紀以上にわたって、多くの文学作品が書かれている。学者は、ジャワ語の発達を4つの段階に分けている。

古ジャワ語 9世紀以降
中期ジャワ語 13世紀以降
新ジャワ語 16世紀以降
現代ジャワ語 20世紀以降(この段階はあまり一般的でない)
ジャワ語は、インドのブラーフミー文字の流れをくむジャワ文字、アラブ・ジャワ文字、ジャワ語に適化したアラビア文字(ジャウィ文字)、ラテン文字で書かれる。

ジャワ語は現在、どこの国の公用語でもないが、ジャワ語を母語として用いる人の数は、オーストロネシア語族の中で、断然一位である。およそ8千万人がこの言葉を話すかまたは理解する。少なくともインドネシアの総人口の45%は、ジャワ語の家系であるか、ジャワ語が支配的な言語である地域に住んでいる。1945年以降、インドネシア大統領の5人に4人までがジャワ語の家系である。従って、インドネシアの国語でありマレー語の新しい方言であるインドネシア語の発展に、ジャワ語が大きな影響を与えていることは、驚くべきことではない。

ジャワ語には中央ジャワ方言、東ジャワ方言、西ジャワ方言の、3つの主要な方言がある。ジャワ西端のバンテンから東端のバニュワンギまで方言が連続している。すべてのジャワ語の方言は、互いに多少なりとも理解可能である。

2009年02月06日

三国遺事

390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

高麗史(世家)
999年 十月 日本国人の道要弥刀等二十戸、来没す。之を利川郡に処らしめ、編戸となす。
1012年 八月三日、日本国の潘多等三十五人、来没す。
1019年 四月二十九日、鎮溟 船兵都部署の張渭男等、海賊八艘を獲。賊に掠められし日本の生口男女二百五十九人は、供駅令の鄭子良を遣わし、その国に押送す。
1029年 七月二十八日、耽羅の民の貞一等、日本より還る。初め貞一等二十一人、海に浮かび風に漂い、東南のかた極遠の島に到る。島人は長大にして、遍体毛を生じ、語言は殊異なり。劫し留めらるること七か月、貞一等七人は小船を窃み、東北のかた日本の那沙府に至り、乃ち生還するを得たり。
1036年 七月十六日、日本国、我が漂流人の謙俊等十一人を帰す。
1039年 五月十日、日本民の男女二十六人、来没す。
1049年 十一月二十日、東南海船兵都部署司奏す、「日本の対馬島の官、首領の明任等を遣わし、我が国の飃風人の金孝等二十人を押送し、金州に到る」と明任等に例物を賜うこと差あり。
1051年 七月十一日、日本の対馬島、使いを遣わし、被罪逃人の良漢等三人を押送す。
1056年 冬十月一日、日本国使の正上位権隷の藤原朝臣頼忠等三十人、金州に来り館す。
1060年 七月二十七日、東南海船兵都部署奏す、「対馬島、我が飄風人の礼成江民の位孝男を帰す」と。王、使者に礼物を賜うこと優厚なり。
1073年 七月五日、東南海都部署奏す、「日本国人の王則貞・松永年等四十二人来り、螺鈿鞍橋・刀・鏡匣・硯箱・櫛・書案・画屏・香炉・弓箭・水銀・螺・甲等の物を進めんことを請う。壱岐島の勾当官、藤井安国等三十三人を遣わし、亦た方物を東宮および諸令公府に献ぜんことを請う」と。制して、海道に由り、京に至るを許す。
十一月十二日、八関会を設け、神鳳楼に御し観楽す。翌日、大会す。大宋・黒水・耽羅・日本等の諸国人、各々礼物・名馬を献ず。
1074年 二月二日、日本国の船頭の重利等三十九人、来りて土物を献ず。
1075年 閏四月五日、日本商人の大江等十八人、来りて土物を献ず。
六月二十二日、日本人の朝元・時経等十二人、来りて土物を献ず。
七月十日、日本商五十九人来る。
1076年 十月十五日、有司奏す、「日本国の僧・俗二十五人、霊光郡に到り、告げて曰く、「国王の寿を祝う為め、仏像を雕成す。請う、京に赴き、以て献ぜんことを」と」と。制して、之を許す。
1078年 九月一日、日本国、耽羅の飄風民の高礪等十八人を帰す。
1079年 九月、日本国、我が飄風商人の安光等四十四人を帰す。
冬十一月五日、日本商客の藤原等来り、法螺三十枚・海藻三百束を以て興王寺に施し、王の為めに寿を祝う。
1080年 閏九月十一日、日本国の薩摩州、使いを遣わし、方物を献ず。
1082年 十一月九日、日本国の対馬島、使いを遣わし、方物を献ず。  
1084年 六月二十日、日本国筑前州の商客の信通等、水銀二百五十斤を献ず。
1085年 二月十三日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、柑橘を進む。
1086年 三月二十二日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、方物を献ず。
1087年 三月二十日、日本商の重元・親宗等三十二人、来りて方物を献ず。
七月二十一日、東南道都部署奏す、日本国対馬島の元平等四十人、来りて真珠・水銀・宝刀・牛馬を献ず。
1089年 八月十九日、日本国の大宰府の商客、来りて水銀・真珠・弓箭・刀剣を献ず。
1093年 秋七月八日、西海道按察使奏す、「安西都護府轄下の延平島の巡検軍、海船一艘を捕らう。載る所の宋人は十二、倭人は十九。弓箭・刀剣・甲冑ならびに水銀・真珠・硫黄・法螺等の物あり。必ず是れ、両国の海賊、共に我が辺鄙を侵さんと欲する者ならん。其の兵杖等の物は、官に収納せんことを請う。捕らうる所の海賊は、並な嶺外に配し、其の巡捕せる軍士は賞せん」と。之に従う。
1116年 二月二日、日本国、柑子を進む。
1147年 八月十三日、日本の都綱の黄仲文等二十一人来る。
1169年 正月三十日、奉香里離宮に幸し、郡臣に宴し、仍りて宋商および日本国の進むる所の玩物を賜う。
1170年 春正月一日、王、賀を大観殿に受くるに、臣僚の賀表を親製し、群臣に宣示す。表に曰く、「三陽序に応じて、万物惟れ新たなり、玉殿春回りて、竜顔慶洽す。北使の寿を上りて、辞を致し、日域(日本)の宝を献じて、帝を称するより、常に天神の密助あり。
1216年 二月六日、日本国の僧、来りて其の法を求む。
1223年 五月二十二日、倭、金州に寇す。
1225年 夏四月八日、倭船二艘、慶尚道の沿海の州県に寇す。
1226年 正月二十七日、倭、慶尚道の沿海州郡に寇す。巨済県令の陳竜甲、船師を以て沙島に戦い、二級を斬す。賊、夜、遁る。 六月一日、倭、金州に寇す。
1227年 四月十五日、倭、金州に寇す。防護別監の?旦が兵を発し、賊船二艘を捕らえ、三十余級を斬し、且つ獲る所の兵杖を献ず。
五月二日、倭、熊神県に寇す。別将の鄭金億等、山間に潜伏し、突出して七級を斬す。賊、遁る。
五月十七日、日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍りて修好し互市せんことを請う。
是の歳、及第の朴寅を遣わし、日本に聘せしむ。時に倭賊は州県を侵掠す。国家これを患い、寅を遣わして牒をもたらし、歴世の和好を以て、宜しく来侵すべからざるを諭す。日本は賊倭を推検し、之を誅す。侵掠、ややに息む。
1243年 九月二十九日、金州防禦官報ず、「日本国は方物を献じ、また我が漂風人を帰す」と。
1244年 春二月二日、有司劾奏す、「前の済州副使の?孝貞と判官の李?の在任せる時、日本商船の颶風に遇い、州境に敗れたるに、孝貞等私かに綾絹・銀珠等の物を取る。孝貞より銀二十斤、?より二十斤を徴し、島に流せ」と。
1259年 七月二十八日、監門衛録事の韓景胤と、権知直史館の洪貯を日本に遣わし、海賊を禁ずるを請わしむ。
1260年 二月三日、済州副使・判礼賓省事の羅得?を以て、防護使を兼ねしむ。朝議するに、「済州は海外の巨鎮なり、宋商と島倭と、無時往来す、宜しく特に防護別監を遣わし、以て非常に備うべし。然るに、旧制は但だ守倅のみ、防護を別置すべからず」と。ついに得?を以て、之を兼ねしむ。
1263年 二月二十二日、倭、金州管内の熊神県の勿島に寇し、諸州県の貢船を掠す。
四月五日、大官署丞の洪?と、詹事府録事の郭王府等を遣わし、日本国に如きて、賊を禁ぜんことを請わしむ。牒に曰く、「両国の交通せるより以来、歳ごとに常に進奉すること一度、船は二艘を過ぎず。設し他船の他事に枉憑し、みだりに我が沿海の村里をみだすあらば、厳しく徴禁を加うるを似て定約となす。越えて今年二月二十二日、貴国の船一艘、故なく来りて、我が境内の熊神県界の勿島に入り、其の島に泊まる所の我が国貢船に載する所の多般の穀米、あわせて一百二十五石、紬布あわせて四十三匹を略い将ち去れり。また椽島に入り、居民の衣食・資生の具をば、尽く奪いて去れり。元定交通の意に於いて、甚だ大いに乖反す。今、洪?等を遣わし、牒をもたらして似て送らしむ。公牒を詳かにし、あわせて口陳を聴き、上項の奪攘人等を窮推して、尽く皆な微沮し、似て両国和親の義を固めん」と。
六月、日本官船大使の如真等、将に宋に入り、法を求めんとして風に漂い、僧・俗あわせて二百三十人は開也召島に泊まり、二百六十五人は群山・楸子の二島にいたる。大宰府の少卿殿は、「商船の七十八人、宋より将に本国に還らんとし、風に漂いて船を失い、小船を似て宣州の加次島に泊まる」と白す。全羅道按察使に命じて、糧・船を給し、其の国に護送せしむ。
秋七月二十七日、日本商船の三十人、風に漂い亀州の?島にいたる。命じて糧を賜い、護送せしむ。
八月一日、洪?・郭王府等、日本より還り、奏して曰く、「海賊を窮推するに、すなわち対馬島の倭なり。米二十石・馬麦三十石・牛皮七十領を徴して来る」と。
1265年 秋七月一日、倭、南道の沿海州群に寇す。将軍の安洪敏等に命じ、三別抄軍を率い、之を禦がしむ。
1266年 十一月二十五日、蒙古、黒的・殷弘等を遣わし来り、詔して曰く、「今、爾が国の人の趙彝来り、「日本は爾が国と近隣をなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、またあるいは使いを中国に通ず」と告ぐ。故に今、黒的等を遣わし日本に住かしめ、与に通和せんと欲す。卿、其れ、去使を道達し、似て彼の疆を撤して東方を開悟し、向風・慕義せしめよ。この事の責は、卿、宜しく之に任ずべし。風濤の険阻なるを似て、辞と為す勿れ。末だかつて通好せざるを似て、解となす勿れ。彼れ命に順わず、去使を阻むあるに托せんことを恐る。卿の中誠、斯に於いて見るべし。卿、其れ、之を勉めよ」とのたまう。**十一月二十八日、枢密院副使の宋君斐と、侍御史の金賛等に命じ、黒的等と与に日本に住かしむ。
1267年 春正月、宋君斐・金賛、蒙使と与に巨済の松辺浦に至り、風濤の険を畏れ、ついに還る。王、また君斐をして黒的に随い、蒙古に如かしめ、奏して曰く、「詔旨に諭したまう所の、使臣を道達して日本に通好するの事は、謹みて陪臣の宋君斐等を遣わし、使臣に伴いて似て住かしむ。巨済県に至り、はるかに対馬島を望むに、大洋万里、風濤の天を蹴るを見、意謂えらく、「危険なること此の若し。安んぞ上国の使臣を奉じ、険を冒して軽々しく進むべけんや。対馬島に至るといえども、彼の俗は頑獷にして礼義なし。設し不軌するあらば、将た之を如何せん」」と。是を似て、与倶にして還れり。且つ日本は、素より小邦と末だ嘗て通好せず。但だ対馬島の人、時に貿易に因りて、金州に往来するのみ。小邦、陛下の即祚せるより以来、深く仁恤を蒙り、三十年の兵革の余、稍々に蘇息するを得、緜緜と存喘す。聖恩は天大にして、誓いて報?せんと欲す。如しなすべきの勢いありて、心力を尽さざらんには、天日の如きものあり」と。
八月一日、黒的・殷弘および宋君斐等、復び来る。帝、諭して曰く、「向者、使いを遣わし日本を招懐せしむるに、卿に嚮導を委ねたり。意わざりき、卿の辞を似て解となし、ついに徒らに還らしめんとは。意うに、日本、すでに通好せば、則ち必ず尽く爾が国の虚実を知る。故に、托するに他辞を似てするならん。然れども、爾が国の人の京師に在る者少なからず、卿の計もまた疎かなり。且つ天命は諶を難んじ、人道は誠を貴ぶ。卿は先後食言すること多し。宜しく自省すべし。今、日本の事、一に卿に委ぬ。卿、其れ、朕の此の意を体し、日本に通諭して、必ず要領を得るを似て期となせ。卿、嘗て言あり、「聖恩は天大にして、誓いて報効せんと欲す」と。此れ、報効に非ずして、何ぞや」とのたまう。
八月二十三日、起居舎人の潘阜を遣わし、蒙古書および国書をもたらし、日本に如かしむ。蒙古書に曰く、「大蒙古皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君は、境土相い接すれば、尚お講信・修睦に務む。況んや我が祖宗、天の明命を受けて、区夏を奄有するをや。遐方・遠域の威を畏れ徳に懐く者は、悉く数うべからず。朕、即位の初め、高麗無辜の民の、久しく鋒鏑つかるるを似て、即ち兵を罷めしめ、その疆域を還し、その旄倪を返す。高麗の君臣、感戴して来朝し、義は君臣といえども、歓ぶこと父子の若し。計るに、王の君臣もまた、已にこれを知るならん。高麗は朕の東藩なり。日本は(高麗に)密邇し、開国より以来、また時に中国に通ずるに、朕の躬に至りて、一乗の使いの似て和好を通ずるなし。尚お恐る、王の国のこれを知ること、末だ審かならざるを。故に使いを遣わし、書を持して、朕の志を布告せしむ。冀わくは、自今似往、通問して好みを結び、似て親睦せん。且つ聖人は至りては、夫れ、孰れか好む所ぞ。王、それ、これを図れ」とのたまう。国書に曰く、「我が国、蒙古大国に臣事し、正朔を稟くること年あり。皇帝は仁明にして、天下を似て一家となしたまい、遠きを視ること邇きが如く、日月の照らす所、みなその徳を仰ぐ。今、貴国に通好せんと欲して、寡人に詔して云う、「日本は高麗と隣りをなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、しばしば中国に通ず。故に、特に書を遣わし、似て往かしむ。風濤の阻険なるを似て、辞となす勿れ」とのたまう。その旨、厳切なり。茲にやむを獲ず、某官の某を遣わし、皇帝の書を奉じて前去しむ。貴国の中国に通好するや、代々これなきはなし。況んや今、皇帝の貴国に通好せんと欲したまうは、その貢献を利とするに非ず。蓋し無外の名を似て、天下に高くせんと欲するのみ。若し貴国の通好するを得ば、必ず厚くこれを待すべし。それ、一介の士を遣わし、似て住きて、これを観ること何如。貴国、商酌せよ」と。
十一月十一日、弟の安慶公唱を遣わし、蒙古に如き、賀正せしむ。因りて、更に藩阜を遣わし、日本に使いせしめたるを告ぐ。
1268年 二月二十一日、初め帝、趙彝のそしりを似て、怒り解けたまわず。親ら?に勅して曰く、「前日、爾が国の奏せる所、朕、今、これを説わん。爾、それ、詳しく聴け。(中略)爾の日本と交通せるは、爾が国の人の来りて此に居る者、これを知らざるなし。爾、前日に於いて、何ぞ末だ嘗て交通せずと言い、似て朕を欺きしか。爾等の奉する所は、皆な是れ妄説なり。必ずしも答えず」とのたまう。
秋七月十八日、起居舎人の藩阜、日本より還る。閣門使の孫世貞、郎将の呉惟碩等を遣わして蒙古に如き、節日を賀せしむ。また藩阜を遣わして、偕に行かしめ、上書して曰く、「向に臣に詔して、似て日本に宣諭せしめたまう。臣、即ち陪臣の藩阜を差わし、皇帝の璽書を奉じ、ならびに臣の書および国贐をもたらし、前年の九月二十三日似て、船を発して住く。今年の七月十八日に至り、回り来りて云う、「彼の境に到りてより、便ち王都に納れず、西偏の大宰府なる者に留置さるること凡そ五か月、館待甚だ薄し。授くるに詔旨を似てするも、而も報章なし。また国贐を贈り、多方告諭るも、竟に聴かず。逼りて之に送らる。故を似て、容領を得ずして還れり」と。末だ聖慮に副わず、惶懼すること実に探し。すなわち、茲に陪臣の藩阜等を差充し、似て奏す」と。
十月十三日、蒙古、明威将軍・都統領の脱朶児と、武徳将軍・統領の王国昌と、武略将軍・副統領の劉傑等十四人を遣わし来る。詔して曰く、「卿、崔東秀を遣わし来りて、備兵一万・造船一船隻の事を奏す。今、特に脱朶児等を遣わし、彼に就きて軍数を整閲し、舟艦を点視せしむ。其の造る所の船隻は、去官の指画を聴け。もし耽羅の已に造船の役に与りたれば、必ずし煩重すべからず。もし其れ与らずんば、即ち別に百艘造らしめよ。其の軍兵・船隻、整点して足備せば、或いは南宋、或いは日本。逆命征討のことは、時に臨みて宜しきを制せしむ。仍りて差去せる官が先行し、黒山・日本道路を相い視しむ。卿もまた官を差わして、護送せしめよ」とのたまう。
十月二十二日、郎将の朴臣甫と、都兵馬録事の禹天錫を遣わし、国昌・劉傑等に従い、住きて黒山島を視しむ。
十一月二十日、黒的等、詔を伝う。其の詔に曰く、「向に、卿に去使を道達し、日本に送至するのを委ぬ。卿、乃ち辞を飾り、風浪険阻なるを以て、軽々しく渉るべからずと為せり。今、藩阜等、何に由りて達し得たるか。羞ずべく畏るべきの事、卿、已に之を為せり。復た何をか言わんや。今、来り奏し、藩阜の日本に至るや、逼りて送還さるの語あり。これもまた、安んぞ信を取るに足らんや。今、復び黒的・殷弘等を遣わし、使いに充てて以て住かしめ、必ず達せんことを期す。卿、当に重臣をして道達せしむべし、前の如く稽阻を致す毋かれ」とのたまう。
十二月四日、知門下省事の申思?、侍郎の陳子厚、起居舎人の藩阜は、黒的・殷弘とともに日本に如く。
1269年、三月十六日、黒的及び申思?等、対馬島に至り、倭人二人とらえて似て還る。
夏四月三日、参知政事の申思?を遣わし、黒的に伴い、倭人二人を以って、蒙古に如かしむ。
五月二日、慶尚道按察使、馳報す、「済州人の漂風して日本に至り、還りて、「日本、兵船を具して、将に我に寇せんとす」と言う」と。是に於いて、三別抄及び大角班を遣わし、海辺を巡戍せしむ。また沿海の群県をして、城を築き殻を積ましめ、彰善県所蔵の国史を珍島に移す。
七月二十二日、
1272年 正月十八日、趙良弼、日本より還る。書状官の張鐸を遣わし、日本使十二人を率いて、元に如かしむ。王、訳語・郎将の白?を遣わし、表賀して曰く、「盛化旁流して、はるかに日生(日本の事)の域におよび、殊方率服して、悉く天覆の私を欣ぶ。惟だ彼の倭人は、鰈海に処る。宣撫使の趙良弼、年前九月を似て、金州の境に至り、装舟し放洋して住く。是年正月十三日、日本使・佐一十二人とともに、合浦県の界に還到せり。則ち此れ、誠に聖徳の懐綏に由る。彼れ、則ち皇風に嚮いて慕順し、一朝海を渉り、始めて爾の職を修む。而して万里を来りて天を膽る。曷ぞ、臣心の喜びを極めん。茲に賤介を馳せ、宸庭に仰ぐ」と。
二月十日 中書省、牒して曰く、「世子の諶の云うに拠るに「吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺?を保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。すでに諶は連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、ますます切に效をいたす。惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん」と都省奏す、「聖旨を奉じて、世子をして、親しく自ら去かしめよ。尚書省の馬郎中をして做伴せしめ、当に去かしむべし」と」と。時に世子、久しく燕京に留まる。従者は皆な東帰を愁等し、世子に勧むるに、東征の事を以てし、帝に請いて還らんとす。薛仁倹・金?等、不可として曰く、「世子のここに在るは、将に社稷を衛らんとするを以てなり。今、これの事を請い、以て還らば、則ち本国如荷せん。世子、之を寝めよ」と。たまたま、林惟幹これを聞き、これに仮りて先に東還を請い、没せられし所の田民・財宝を復た収めんと欲す。世子これを知り、やむを得ず帝に請う。国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。
1274年 文永の役(1274)で高麗に帰還した金方慶らは、日本の対馬壱岐の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。
侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人献王及公主

2009年01月22日

娼妓取締規則

韓国軍にも慰安婦制度
外務省関係
いわゆる従軍慰安婦問題について(平成5年8月4日)(PDF)
従軍慰安婦問題に対する日本政府の施策(平成19年4月)
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表(平成4年7月6日)
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)
アジア女性基金 政府調査の資料
「「従軍慰安婦」関係資料集成」1?5 
入り口・1・2。3・4・5  
「慰安婦」問題とアジア女性基金
慰安婦制度批判派のサイト
韓国挺身隊研究所(日本語・文字化け有り/他に英語、ハングル)
ナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)
日本の現代史と戦争責任についてのホームページ 林 博史(関東学院大学教授)
日本軍慰安婦問題/軍隊と性暴力」論文リンク集
「従軍慰安婦」に関する新史料を発見
Comfort Women (オープンディレクトリー: Society: Issues: Warfare and Conflict: War Crimes: Japan)(英語)
強制連行否定派のサイト
070.15 「従軍慰安婦」問題(国際派日本人養成講座)
リンク集
SPリンク集 従軍慰安婦問題リンク集

脚注
^ 関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年)によれば、1909年12月、日本政府は中国(当時は清)における日本の租借地である関東州において日本人と中国人女性に対して「娼妓取締規則」により「娼妓(遊女、娼婦)」として管理してきたそれまでの方針を変更し、対外関係を考慮して日本人女性に対してだけは娼妓家業を認めないことにし、芸妓、酌婦が公娼的行為をすることは黙認することにしたため、関東州、満州においては「酌婦」が事実上、日本人娼妓を差す用語となったという。この後、内地(日本本土)や朝鮮において「酌婦」という仕事の名目で女性を「満洲」に連れ出しておいて、実際には「娼妓」と同様の「売春」を強要する詐欺事件がしばしば起こったという。慰安婦業に従事する契約書においては、仕事内容は稼業婦や酌婦などと記されていた。
^ a b c d e 小野田寛郎氏による「私が見た『従軍慰安婦』の正体」(『正論』2005年1月号)
^ 北支那方面軍の伍長をしていた金子安次の証言(「女性国際戦犯法廷」 2000年12月)
^ 1942年5月30日付の海軍省軍務局長・兵備局長から南西方面艦隊参謀長宛に出された「兵備四機密第一三七号」「第二次特要員進出に関する件照会」と題する文書で、「準特要員」として和歌山県海南市から50人をペナンに送るとされているが、この「準特要員」は慰安婦のことだという指摘もある。(出典↓)
^ 「日本の戦後処理問題に関するピョンヤン国際討論会」 1993年11月7日・8日
^ 吉見義明・林博史(編著) 『共同研究・日本軍慰安婦』 大月書店、1995年8月
^ a b 挺身隊: 日中戦争の頃、挺身隊という語は男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」 という意味で1940年から使用されていた。韓国においては未婚女性を挺身隊として勤労動員することは、「処女供出」とも呼ばれた(朝鮮語の「処女」とは未婚女性とか若い女性とかいう意味)。 朝鮮では元もと未婚女性は戸外労働を忌避する伝統があり、徴用を逃れるために、家から離して隠したり、早く結婚させることがしばしば起こっていた。韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた尹貞玉(1925年生)も同級生らと共に1943年度後半に退学している。
元慰安婦の証言によれば「女子挺身隊」は詐欺の名目に使われたりもしていたという。 挺身隊に動員されると慰安婦にされるとの噂があることを政府も認識していたため、1944年8月、内地(日本本土)では強制動員である「女子挺身勤労令」が出されたときも、朝鮮総督府は、朝鮮では強制動員はしないことを明言し、10月時点でもあくまで官の斡旋であるとしていた。それでも、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため、学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になった。(尹明淑 『日本の軍隊慰安婦制度と朝鮮人軍慰安婦』p296-298)
^ a b c d e f g h i j k l m 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年6月
^ 日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる。(「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」の「控訴人最終準備書面」)
「女子挺身隊」の記事の「朝鮮の挺身隊」の節を参照
^ 『朝鮮日報』(2004年10月22日付)
^ ”Sex Slave”との表現を使っているものとしては、『ジャパンタイムズ』などがある。
^ 2000年の「女性国際戦犯法廷」の正式名は「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」であった。
^ a b c d e f g h 「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 龍溪書舎  1997年3月20日
^ 日本における挺身隊の結成率は1944年5月でわずか7%であり、挺身隊の結成率があまりにも低かったため、1944年8月の女子挺身勤労令で挺身隊は強制動員になった。1944年以降の12歳以上の生徒や学生の動員は300万人だったという。(1940年当時の日本の人口は7,000?7,500万)
^ a b 毎日新聞社(編)『決定版・昭和史??破局への道』 毎日新聞社 1983年 第11巻P190)1944年8月に勅令で女子挺身勤労令を公布、即日施行
^ 国家総動員(たむたむページ) 
^ a b 韓国の経済史学者の李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学教授は、この時の報道が、元『東亜日報』編集局長、宋建鎬 (ソン・ゴンホ)の『日帝支配下の韓国現代史(1984年)』(風濤社 1984年)という本で、「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5?7万人が慰安婦として充員された」と人数が多くされたのを初め、韓国の学者や北朝鮮 の代表などが、日本の収奪像を過度に誇張していることを批判した。李栄薫教授「国史教科書、日本収奪を膨らませ過ぎ」
^ (『中央日報』2005年4月26日付)
^ 千田は、韓国の推計として、「挺身隊」として集められた女性20万人のうち、5?7万人が慰安婦、と書くが、在日朝鮮人運動史研究者金英達 (キム・ヨンダル)は、千田は『ソウル新聞』(1970年8月14日号)の記事を誤読したと推測している。 実際の記事は、「1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおおよそ20万。そのうち韓国の女性は、5?7万人とされている」で、5?7万人の根拠は不明。( 「半島女子勤労隊」について」高崎宗司 p1/20、 1999 年)
^ a b 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編)『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 1993年
^ a b 1997年12月15日、東京地方裁判所713法廷 で行なわれた「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」の口頭弁論における鑑定証言(福島瑞穂弁護士が質問)
^ a b c d 1965年(昭和40年)6月、日本は韓国との間で締結した「日韓基本条約」 において多額の援助を約束した。その援助は、無償援助が政府年間予算の1割、極めて長期で無償に近いと言われたものを入れると、年間予算の1/4に相当した。 荒船清十郎代議士は条約締結の半年後、自身の選挙区の集会において、日本が朝鮮に対して大変なことをしたのに、補償額を大幅に負けさせたという話をした。 
荒船は、「強制連行の中から兵士にして戦死したのが56万7千人、慰安婦を消耗品にして14万2千人、貯金として、1100億円、その他、文化財を役人が奪ったものをすべてで50億ドル請求していたのを3億ドル(1100億円)にまけさせた」と語った。
この発言が後に、1998年の「マクドゥーガル報告書」において、旧日本軍が慰安婦を性奴隷にし、大虐殺したことの根拠とされた。これについて「アジア女性基金」は、韓国政府は、韓国人労務者、軍人軍属のうち10万2603人が負傷ないし死亡したと指摘したが、「慰安婦」のことは一切持ち出しておらず、数字などすべては荒船の嘘であるとしている。(また、文化財も民間所有であり、3億ドルとは別に寄付ということで韓国に引き渡されている)(「「慰安婦」問題とアジア女性基金」 (11頁=p12/100)、荒船清十郎 を参照)
また、中国では金一勉の論文から荒船発言を知り、自身の推定した36万?41万人の慰安婦」総数のうち14万2千人を引いて、中国人「慰安婦」は20万人とする研究も出ているという。
なお、「荒船清十郎」代議士は運輸大臣、衆院副議長経験者であるが、放言と地元への利益誘導などで有名である。
またさらにこの報告書は、1965年の荒船発言を、1975年の声明として引用している(『マクドゥーガル報告書(citing a 1975 statement by Seijuro Arahune, Liberal Democratic Party member of the Japanese Diet, that 145,000 Korean sex slaves had died during the Second World War)』)
^ 2004年初めのアジア女性基金の文書で数字が出されているので、学術発表は2003年以前と思われる。上海に始まる日本軍慰安所 上海師範大教授が調査 (『人民網』日本語版 2005年6月17日付)
^ 『中央日報』2005年4月23日付
^ 慰安施設の地域別の内訳は、華北100、華中140、華南40、東南アジア100、南西太平洋10、樺太10である。 400箇所というのは、計画、新設、施設の恒久化、予算の割り振り、などのうち、どの意味なのか不明とされる。陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。慰安施設がすべて慰安所であったかも不明。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけである(秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』p400,p105)。
^ 外地の日本軍・軍属は、満州(40?66万人)を別として、太平洋?ビルマ(現:ミャンマー)に展開した時期で140?150万人、「大陸打通作戦」の末期においては280万人程度とされている(同p401)
^ (参考)  人口増大も含めて、発展途上国のように人口ピラミッドが形成されていれば、実質最高寿命60歳とすると、20±5歳の間の女性の人口は、世代平均(30歳)の4/3倍であり、全体の10/60 × 1/2 × 4/3=1/9という計算が可能。総人口を2500万人とすれば、約280万人となる。[1]
^ 朝鮮での公娼は1930年代から1942年までは日本人を含めて約1万人。
^ 『朝鮮日報』 2005年1月11付
^ 「北支派遣多田舞台冨塚舞台副島隊調査」(昭和15年1月)
^ 「支那事変ニ於ケル軍旗風紀ノ見地ヨリ考察セル性病ニ就テ」(1936年(昭和15年)10月)
^ a b c d 第140回国会 参議院 予算委員会 第2号 平成9年(1997年)1月30日
^ a b c d 第140回国会 参議院 予算委員会 第8号 平成9年(1997年)3月12日
^ a b c 『たかじんのそこまで言って委員会』2005年4月10日放送
^ 井浦祥二郎 『潜水艦隊』 学習研究社 (2001年6月)
^ a b c d 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月
^ a b c 吉見義明、川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店1997年 7月
^ 1962年の国会において、厚生省(現:厚生労働省)は「慰安婦は、軍属にはなってないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いをしているはず」と答弁している。第040回国会 衆議院 社会労働委員会 第27号 昭和37年(1962年)4月11日
^ Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(下)?仕掛けられた情報戦争?によれば、 中京テレビ製作の『IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には』において、元慰安婦の話に対する日本語のテロップは「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。」となっていたが、実際には、元慰安婦はインドネシア語で「あの朝鮮人は誰だったろう。・・・」と語っていたという。
^ 戦争犠牲者を心に刻む会 (編) 『アジアの声(第11集) 私は「慰安婦」ではない』 東方出版(大阪) 1997年8月
^ 文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという。
^ 韓国挺身隊問題対策協議会『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(明石書店 1993年)
^ a b 米国立公文書館所蔵の米軍のレポート”UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”(1944年夏、北ビルマのミートキーナーにおいて捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と雇い主の日本人夫婦に対して行なった尋問の内容が報告されている)。
^ a b 金一勉 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(徳間書店 新装改訂版版 1992年2月)
^ 吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995年
^ 文玉珠 『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎 1996年)
^ 西岡力 『闇に挑む!』(徳間文庫 1998年9月)
^ a b c 秦郁彦 『昭和史の謎を追う 下』文藝春秋社  1999年12月
^ a b 吉見義明(編)『従軍慰安婦資料集』I大月書店 1992年12月
^ 高安やえ「女のラバウル小唄」(『戦中派の遺言〈続〉』 櫂書房1979年)
^ 日本占領下インドネシアにおける慰安婦---オランダ公文書館調査報告 山本まゆみ、ウイリアム・ブラッドリー・ホートン
^ 山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文藝春秋  1975年1月)
^ 日本の円の価値は、この時期は安定していたが、ブロック経済(又は満州事変)と前後して急低下して日華事変の頃まで6割のレベルが続き、欧州戦争開始以後さらに低下している。 「国際金融」第9回 「円の歴史、PPP」 p13
  また、当時日本の大正中期から昭和の第二次大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、米価は上下変動があり、第二次上海事変からとくに欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。なお、北川サキの前借りは、10歳で売られた時で300円だったが、3年経って娼婦になるまでの渡航費用と食事代と利息で2,000円になると聞かされたが、北川サキ自身は疑っている。
^ 総山孝雄 『南海のあけぼの』叢文社 1983年1月
^ 『従軍慰安婦』(千田夏光著: 双葉社 1973年)、『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉著:三一書房  1976年)などが出版されたが、大きな反響には至らなかった。
^ 『朝日新聞』とその系列の「テレビ朝日」にしばしば登場した
^ a b 植村隆記者は「朝日新聞社」から韓国に派遣され、語学留学までしているので、韓国語に詳しいはずなのに、金学順の韓国語での証言に含まれていた「キーセン」(公娼)出身ということは書かずに、実際に発言していない「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との記事を書いたことは意図的な情報操作だという指摘もある。 (救う会の西岡力副会長が 2005年1月24日に発表した「朝日新聞にまず問いたいこと」という一文、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第4巻(小学館 1997年)、これらの批判を受けてか、『朝日新聞』の縮刷版は同じ記事を12日付けにし、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行された」という部分を削除した。
^ a b c d 『産経新聞』1997年3月9日付
^ a b 『産経新聞』(1998年4月28日付)「主張」
^ a b 河野談話は見直しが必要だ 池田信夫BLOG
^ この動きについては、麻生太郎外務大臣の民放での発言を初め、北朝鮮、韓国、中国などによる日米分断のための反日工作だとの指摘もある。
^ 終戦後にアメリカ占領軍相手の女性達を警察が取り締まりの区別上、「特別挺身隊」と呼んでいたという話もあるが、このことは慰安婦と女子挺身隊混同の一因とは見られていない。(いのうえせつこ『占領軍慰安所』 新評論 (1995年8月31)
^ 「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」は、半年後には五十嵐広三、田英夫などの国会議員や、橋本大二郎(橋本龍太郎元首相の弟)を含む120人以上の個人と10以上の団体の賛同を得る。
^ 宋斗会に私淑し、在日二世の日本国籍確認訴訟に取り組む。2005年5月には『朝鮮人徴兵・徴用に対する日本の戦後責任―戦後日本の二重基準』という著作を出版した。
^ 戦後、「浮島丸」事件の訴訟を起こしたり、指紋押捺を義務づけていた外国人登録制度に抗議をして、霞が関で自らの外国人登録証を焼き捨てたり、慰安婦問題に対して日本政府に謝罪を求める意見広告を新聞に出したりするなど、在日の立場から発言した。
^ a b 西岡力 「すべては朝日新聞の捏造から始まった」(『WILL』2007年5月号)
^ 第118回国会 参議院 予算委員会 第19号 平成2年(1990年)6月6日
^ a b 要求した六項目とは
1・日本政府が朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認める。
2.公式謝罪する。
3・蛮行の全てを自ら明らかにする。
4・慰霊碑を建てる。
5・生存者・遺族への補償。
6・歴史教育で(慰安婦問題に関する)事実を教える。
(後に責任者処罰が加えられる。)
^ 朝日新聞社 『女たちの太平洋戦争(3)---暗い青春の日々』 朝日新聞社 1992年3月
^ 記事を書いた植村記者は、慰安婦問題で訴訟を起こした「太平洋戦争犠牲者遺族会」の女性幹部の娘と結婚していおり、義母からの情報提供で、韓国よりも先にスクープを書いた
^ この元慰安婦金学順の同年8月14日の韓国ソウルでの記者会見の話によると、17歳の時、義父によって、華北の日本軍部隊に連れて行かれたことになるが、この1939年(昭和14年)に「女子挺身隊」は未だ存在していなかった。
^ 秦郁彦との対談で、千田夏光は「訴訟を起こした金学順さんの講演記録を読むと、軍による強制連行だったかどうかは不明確なんです。」と述べている。(出典↓)
^ a b 「歴史論争を総括する」(『論座』 1999年9月号)
^ 『ハンギョレ新聞』(現:『ハンギョレ』)1991年8月15日付
^ 『日韓新考』(黒田勝弘 産経新聞出版/扶桑社 2005年 2月)によれば、前年の日本のテレビで、教え子の6人の女子児童を「女子挺身隊」として日本の軍需工場に派遣したソウルで国民学校の教師をしていた日本女性が、戦後、韓国で教え子たちの消息をたずね歩き、全員が無事だったことを確認したという美談が、慰安婦として強制連行されたと誤解されたという。
^ 「パナイ島接客業組合」という資料において、「事業内容」の部分で、酒場、映画などの六項目のうち、最後の「慰安所」という項目だけが、白く消されて公開されていた。その後に公刊された政府資料には、「慰安所」という項目名が復活するが、その下にある責任者の名が黒く消されている。ここは、事業種と事業者・責任者のリストである。(「政府調査「従軍慰安婦」資料集成」2巻202頁)
^ 「平和友好交流計画に関する村山内閣総理大臣の談話」」
^ 同年3月、日本政府は報告書に対する非公式な反論文書を各国に配布したが、強い反発を受けたため、「従軍慰安婦問題」は国際法的には解決済みだとして、「女性のためのアジア平和国民基金」への理解を求める内容に修正した文書を国連に提出したが、各国の理解は得られなかった。
^ 国連における評価基準は上から”commend”(賞賛)、"welcome"(歓迎)、"take note with appreciation"(評価しつつ留意)、"take note"(留意)。
^ 河野・慰安婦談話と石原元官房副長官の証言(『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』 2006/08/28 15:48)
^ 『WILL』2007年5月号
^ 『朝鮮日報』2001年2月19日付
^ この当時の韓国教科書では「女性まで挺身隊の名で連れ去られ慰安婦として犠牲にもなった」と記述されている。
^ 当時、中山文科相は、歴史教科書の見直しを推進する自民党内の「日本の将来と歴史教育を考える若い議員の集い」での代表であった。
^ 『中央日報』 2005年4月2日付2面
^ 60年もの間求め続ける正義:2005年8月10日の「水曜デモ」を機に、元「従軍慰安婦」とその支援者に連帯を表明する。
^ 「時事ニュース」 2007/03/11-10:49
^ 『中央日報』 2007年3月2日付
^ 安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書
^ 衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書
^ 慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相(『JanJan』 2007年3月24日付)
^ "日本軍、慰安婦強制動員" 『聨合ニュース』(韓国語)
^ 「組織的強制徴用なし」 慰安婦問題 米議会調査局が報告書(『産経新聞』2007年4月12日)
^ (『時事通信』2007年4月27日)
^ 『朝まで生テレビ!』1997年1月3日放送
^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 5』 小学館 2002年9月
^ 呉善花 『「反日韓国」に未来はない』(小学館 2001年9月)
^ 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『文藝春秋』4月号)
^ 『共同通信』2007年5月12日付
^ 「慰安婦問題 対日非難は蒸し返し」(Sankeiweb 2007/03/10 06:09)
^ 私が知る「従軍慰安婦」湯浅謙 (季刊『中帰連』第五号 1998年6月)
^ 「日本軍「慰安婦」問題に関する声明」  日本の戦争責任資料センター 2007年2月23日
^ 『親日派のための弁明2』 扶桑社 2004年11月27日
^ 『日本文化チャンネル桜』2005年6月15日放送
^ a b 『産経新聞』2007年5月18日付
^ a b 天児都 『「慰安婦問題」の問いかけているもの』 石風社 2001年7月
^ 2002年、韓国・ 慶南大学客員教授(社会学)の金貴玉が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことを明らかにした。1956年に陸軍本部がに編纂した公式記録や目撃者たちの証言がある。韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約 3年間不法に公娼を設置・運営していた(『朝日新聞』2002年 2月24日付)
^ 米人女性ジャーナリスト、スーザン・ブラウンミラー(Susan Brownmiller)は自著”Against Our Will”(1975年)で、ベトナム戦争中、米軍がベトナム人女性がいる軍公認の慰安所を利用していたことについて詳細なルポを書いている。また、戦後の日本において、「パンパン」などと呼ばれていた進駐軍相手の日本人娼婦がいたことはよく知られている。
^ 2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution(戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春)」は、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を騙して連れて行き、慰安婦にしたことなどを数多くの報告書や指令文書を元に報じた。
^ 韓国に対しては、ベトナム戦争時に、韓国軍が現地の女性を多数強姦し、私生児を残したことが社会問題になったことなどが指摘されている。
^ a b 『正論』2005年3月号
^ 世界各国にもあった慰安婦・慰安所(『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』 2007/03/09 16:54 )
^ 「民族的快感、沸く韓国 米の慰安婦決議案 ホンダ議員、英雄扱い」(『Sankeiweb』 2007/03/14 03:24)は日本に対する道徳的優位を誇示するために韓国は慰安婦問題を日本の国家的強制によるものとすることに力を注いできていると指摘している。
^ 「日豪安保宣言が中国『慰安婦カード』を無効にする」 浅川晃広(『諸君!』2007年6月号)
^ 「河野談話」発表に関わった当時、内閣官房副長官だった石原信雄は、国会議員との会合において、初期の段階では韓国政府が慰安婦問題をあおるということはなく、むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたが、ある日本の弁護士が韓国で、慰安婦問題を掘り起こして大きくし、それに呼応する形で国会で質問を行うという連携プレーのようなことがあり、「韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけない」という状況があったこ語っている。
^ 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(編) 『歴史教科書への疑問』 展転社 1997年12月23日
^ 韓国の盧泰愚大統領は慰安婦問題の発生について、「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。」と語っている。(『文芸春秋』1993年3月号 )
^ 『正論』 2003年3月号
^ 『諸君!』1992年7月号
^ 中川八洋 『歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本』 徳間書店 2002年4月
^ 1993年5月に吉田を訪ね、積極的に反論するよう勧めたが、「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」、「回想には日時や場所を変えた場合もある」と言われ、吉田の回想は証言としては使えないと確認したという。
^ 1997年1月28日 「日本の戦争責任資料センター」 上杉聰 「『慰安婦』は商行為かという問いに答えつつ 」
^ 「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」(『諸君!』1996年12月号)
^ 「ハイナンNET」は大学生やフリーターなど、10代から20代の若者が、中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援を行なっているネットワーク。
^ 石田米子・内田知行『黄土の村の性暴力』 創土社 2004年
^ 『日本文化チャンネル桜』2005年6月15日
^ 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『 文藝春秋』1997年4月号)
^ 通牒の最後には「依命通牒す」とあり、杉山陸軍大臣の委任を受けて発行されたことが明記されている。
^ ?.「地方警察の反応と内務省の対策」 (永井和「日本軍の慰安所政策について」)
^ 支那渡航婦女の取扱に関する件(秘) 内務省警保局長 各庁府県長官宛 (1938年2月23日)
^ (全文)軍慰安所従業婦等募集に関する件
支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集するに当り、
故らに軍部了解等の名義を利用し 為に軍の威信を傷つけ 且つ一般民の誤解を招く虞あるもの、
或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し 社会問題を惹起する虞あるもの、
或は募集に任ずる者の人選適切を欠き 為に募集の方法 誘拐に類し警察当局に 検挙取調を受くるものある等、
注意を要するもの少なからざるに就ては 、
将来 是等の募集に当たりては 派遣軍において統制し 募集に任ずる人物の選定を周到適切にして、
その実施に当たりては 関係地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、
以て軍の威信保持上 並に社会問題上 遺漏なき様配慮相成度、  依命通牒す。
(ウィキペディア内参照、ノート:軍慰安所従業婦等募集に関する件、慰安所>「慰安所政策の背景とその影響」)
この当時、陸軍省は「従軍慰安婦」の果たす「役割」を高く評価しており、その認識にたち、慰安婦の意義を説く教育参考資料『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布している。その内容は、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている。
『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』(原文)
事変勃発以来の実情に徴するに、赫々たる武勲の反面に略奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、 為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とするところなり。・・(中略)・・ 犯罪非行生起の状況を観察するに、戦闘行動直後に多発するを認む。・・(中略)・・事変地においては特に環境を整理し、慰安施設 に関し周到なる考慮を払い、殺伐なる感情及び劣情を緩和抑制することに留意するを要す。・・(中略)・・ 特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指導監督の適否は、志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の 予防等に影響するに大ならざるを思わざるべからず。
[1942年][9月3日]の陸軍省課長会報で倉本敬次郎恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

台湾軍が南方軍の求めにより「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある。

「台電 第602号」(全文)
陸密電第63号に関し、「ボルネオ」行き慰安土人50名、為し得る限り派遣方、南方総軍より要求せるを以て、 陸密電第623号に基き、憲兵調査選定せる左記経営者3名渡航認可あり度、申請す。
[1944年][6月27日]、内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」(抜粋)

勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、 未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、 労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。
^ 『asahicom 』 2007年3月27日付
^ UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma TheaterAPO 689
^ 京大 白石秀人「従軍慰安婦問題に関する自由主義史観からの批判を検証する」 (この白石秀人の参考文献は、日本政府の発表の資料の直接でなく、「戦争責任資料センター」のものや「解放社」の内容抜粋である。)
^ 尋問者報告書のその文を、「慰安婦自身が答えている」というのは白石の解釈であるが、尋問対象者として慰安婦たちのリスト(仮名)がついている。
^ 彼女たちは1942年に上陸し、1943年には特にに生活状態が良く、1944年には敗色濃い中で爆撃も受け、捕虜となった。(吉見資料集)(註: 軍票の価値の下落によって生活困難が生じることはすでに、他の研究者によって指摘済み)
^ これらの政府文書発表は1993年であり、一般公刊(セット定価10万円)は1997年7月20であるが、吉見によるその秦郁彦批判は、雑誌『世界』(1997年3月号)「歴史資料をどう読むか」(吉見 義明)と言われている。
^ 判決としては被告の勝訴なのに、傍論で原告側の主張に沿う憲法判断を示すことを「ねじれ判決」(国学院大学の大原康男教授の命名)と言い、これまでにもいくつかそのような判決が出ており、上告を封じるものになるなどの点で専門家からも批判がある。
^ 2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。
^ 元慰安婦の方々に対する小泉内閣総理大臣の手紙
^ 1996年10月18日、挺対協の尹貞玉共同代表はKBS(韓国放送公社)ニュースでのインタビューで「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを初めから売春婦扱いすることだ」として、「受け取ってはなりません」 と呼びかけた。韓国政府は当初、歓迎の姿勢を見せたが、このような挺対協の強い反対運動によって態度を変えた。
^ 吉見義明はマクドゥーガルが政府調査に基づくと報告した中で実際に政府資料にない箇所を本人を前に指摘したが、マクドゥーガルは無視したという。(出典↓)
^ 日弁連主催のゲイ・マクドゥーガル講演会(1999年6月2日 東京都千代田 弁護士会館)
^ 会長声明集 Subject:1995-11-16 従軍慰安婦問題への政府の対応に関する声明

2009年01月15日

5-MeO-DIPT


ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ
5-MeO-DIPT(ごめおでぃぷと)はトリプタミン系薬物の一種。系統名は、5-メトキシ-N,N-ジイソプロピルトリプタミン。人体には幻覚作用がある薬物(幻覚剤)である。日本での通称は「ゴメオ」、「フォクシー」、「メルシー」。(ただし、現在では「ゴメオ」と言うと5-MeO-DMT、5-MeO-AMT、5-MeO-DPTなども含まれてしまう為、この通称は廃れている。)形状は白い結晶の粉末。性感の高まりなどの効果があるため、媚薬と触れ込まれる。

デンマークやドイツ、ギリシャ、日本、シンガポール、スウェーデン、アメリカ合衆国などの多くの国において、5-MeO-DIPTは規制物質かそれに準ずる物として規制されている。[1]また、幾つか国で輸入規制措置が行われている。

日本において、5-MeO-DIPTは麻薬及び向精神薬取締法に基づき規制されている。これにより、日本国内における所持、使用、販売、譲渡、製造、運搬などは違法である。麻薬指定されたのは2005年4月17日。2002年6月にマジックマッシュルームが麻薬原料植物に指定された影響を受け、マジックマッシュルームに対するニッチの脱法ドラッグとしてAMTなどのケミカルドラッグと共に、愛好家の間で急速に広がった。流通していた当時は、液状の脱法ドラッグの内容物として含まれている事があった。

アメリカ合衆国において、5-MeO-DIPTは規制物質法におけるスケジュールI薬物として規制されている。2003年4月4日、麻薬取締局は「緊急スケジュール(emergency scheduling)処置」の基で、5-MeO-DiPTと AMTをスケジュールIに加えた。2004年9月29日、これらのドラッグは正式にスケジュールIに置かれた。この規制に先立ち、DIPT、DPT、5-MeO-DMTのような5-MeO-DiPTの類似物質と平行して、5-MeO-DiPTは多くのアメリカのウェブサイトで販売された。しかしながら、2004年7月、連邦法の執行はこれらの5-MeO-DIPT類似物質の販売を告訴する意向があるという事が、ウェブ・トリップ作戦により確証された。

ドイツにおいて、1999年9月から違法となっている。

使用と効果
摂取量は5から30ミリグラム。摂取方法は、主に経口摂取であるが、経鼻摂取、粘膜摂取、喫煙摂取をする者もいる。また、他の薬物と同様に、空腹時に摂取をすると効果が高い。摂取から30分ほどで効果が現れ始め、3から6時間効果が持続する。

摂取後1時間ほどは吐き気を感じることもある。五感に幻覚的な歪みを感じ、また精神的な幻覚作用もある。場合により高揚感、多幸感も覚える。特に、聴覚や触覚の感覚が鋭敏になり、性感も高まる。肛門括約筋が緩むため下痢になる者もいる。なお、この特性から男性同性愛者が性行為に及ぶ際に「活用」されていたが、理性が低下することによる性行為感染症リスク増加が懸念されていた。

副作用として、この薬物の効果中は、インポテンツ、不眠、激しい胃腸症状がしばしばおこる。耐性がつきやすく、1週間ほどのインターバルを開けないと同量の摂取量で同等の効果は得られない。依存症が形成されやすいとの研究報告もなされているが、使用者がそれを感じたという報告は余り無い。 セロトニンになどに強く作用する事から、長期服用による鬱病発症などの報告も多く存在する。

トリプタミンの構造を持つ為、セロトニン再吸収抑制作用を中心とした薬理作用をもつ。

2009年01月08日

ジャイアントパンダ

ジャイアントパンダ(英:Giant Panda)は、中国四川省、陝西省などに生息する、哺乳綱ネコ目(食肉目)クマ科に属する動物。

白と黒にはっきりと分かれた体毛が特徴である。コビトカバ、オカピとともに世界三大珍獣に数えられる。

1869年3月11日、博物学に長けたフランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが(現在の)四川省西部宝興県にて地元の猟師が持っていた白黒模様のパンダの毛皮を欧米人として初めて発見した。後日、パリの国立自然史博物館に毛皮と骨などを送った[1][2][3][4][5]。これがきっかけとなり、ジャイアントパンダの存在が広く知られるようになった。

名称
別名シロクログマ(白黒熊)、イロワケグマ(色分熊)。 中国では熊猫(繁体字:熊貓、拼音: xióngmāoションマオ)または大熊猫(繁体字:大熊貓、拼音: dàxióngmāoダーションマオ)と呼ばれる。

日本では単にパンダと呼ぶ場合、レッサーパンダではなくこのジャイアントパンダを指すことが多いが、先に発見されたのはレッサーパンダの方である[6]。パンダという呼び名は、ネパール語で「竹を食べるもの」を意味する[7]「ポンガ」に由来する、等諸説ある。学名は、ギリシャ語の白黒に由来する。中国語で単に「熊猫」または「熊貓」という場合も同様である。猫にあまり似ていないジャイアントパンダであるが、それを指す中国語に猫という字が入るのも、元はこの名がレッサーパンダを指していた名残である[8]。レッサーパンダは小熊猫と中国では呼ばれるが、ジャイアントパンダの子供いわば子パンダも小熊猫と呼ぶこともあり、混同を招くケースもある。

分類
その名の通りクマに似ているが、アライグマに近い特徴も持つ。そのため、クマ科に属するか、アライグマ科に属するか、独立したパンダ科(もしくは、ジャイアントパンダ科)に属するかの論争が長年繰り広げられていたが、遺伝子の解析により、クマの近縁であることが明らかになった[9][10]。一方、レッサーパンダ(小熊猫・小熊貓)は独立したレッサーパンダ科に分類された。

パンダの系統についてはパンダの項目を参照

亜種の発見
2006年、四川省のジャイアントパンダと秦嶺(陝西省)のジャイアントパンダはそれぞれ独立した亜種であることが確認された[11]。過去には茶色い毛並みのパンダが陝西省に存在していた。

全長は120から150センチメートルで、立ち上がると170センチメートルになる。オスの体重は約100から150キログラム、メスは約80から120キログラムである。生まれた子どもの体重は通常100から200グラムと大人の約1000分の1しかない。目の周り、耳、四肢、背中の両肩の間の毛が黒く、他の部分は白色(クリーム色)である[13][14]。この模様や色使いは「単独行動が維持できるように近過ぎる距離での出会いを回避するのに役立っている[15][16]」「周りの景色に溶け込んで外敵の目から逃れるためのカモフラージュの役割を果たしていた[17]」等と考えられている。尾の長さは約13から20センチメートルであるが、尾はほとんど成長しないため、大人のパンダでは目立たない[13]。パンダのぬいぐるみ・人形・キャラクターグッズの中には、尾を黒く塗った商品を見受ける事があるが、汚れ等による誤解に基づいて色付けされており、パンダの尾の色は正しくは白色(クリーム色)である[13][14]。

生まれた直後は毛が一切生えておらず、薄いピンク色をしている[18]。生後約1週間から十日程で毛根の色が透けるため白黒模様が見え始める[14][18]。生後1か月ほどたつと親と同じような模様の毛が生え揃う[18]。パンダの毛は軟らかそうなイメージがあるが、軟らかいのは生後約1年ぐらいまでであり、大人のパンダの毛は豚毛ブラシに近く比較的硬い[14][18]。毛皮は、堅くて脂ぎっている[14]。

第一中手骨(親指)側にある撓側種子骨と第五中手骨(小指)側にある副手根骨に指状の突起があり、その突起を利用して物を掴むことができる。撓側種子骨は人間の親指のように見えることから「偽の親指」や「第六の指」と呼ばれている[14][18]。

目の周りの模様がたれ目のような形をしているが、実際の目は小さく上がり気味で鋭い目付きである[18][19]。視力はあまりよくないと考えられていたが、2000年代に研究によって灰色と様々な色合いを区別できる事が確認された[20]。

消化器官や歯の構造はクマやアザラシ等、他の肉食動物と大変似ている。犬歯は大きく、奥歯も大きく平らな臼歯で人間のおよそ7倍の大きさ[14][18]。腸や盲腸は草食としては短い構造がデメリットとなり、セルロースを多く含む竹などの食物を食べた場合、栄養摂取の効率が低く、それを量で補うためパンダは1日の大半を竹を食べることに費やしている

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